時代の変化に対応するには?オリックスの海外事業展開から紐解く対応力

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[Publisher] ORIX Group

変化が大きく先行きが不透明な現代は、VUCA時代(「Volatility(変動性)」「Uncertainty(不確実性)」「Complexity(複雑性)」「Ambiguity(曖昧性)」の頭文字)とも言われています。しかし、歴史を紐解けば、リーマンショック、バブル崩壊、戦後からの高度成長など過去にも時代は大きく変化しており、「変化の時代」「新たな挑戦が必要」と言われてきた企業も多いのではないでしょうか。

1964年、高度成長期に生まれたオリックスもその一社。会社設立7年目の1971年に香港へ進出以降、現在では約30カ国・地域に事業を広げています。早い段階からグローバルに目を向けた理由、そしてその後の成長を支えてきたマインドとは。いまの時代にも生かせるヒントにすべく、オリックスの海外事業展開の歴史を追います。

高まる設備投資需要から「リース」の将来性に注目

オリックス(当時 オリエント・リース)が設立された1960年代は、日本が高度経済成長へと歩み始めた時代です。産業構造が変化し、重化学工業中心の社会へと進展するなか、多くの企業が機械化・オートメーション化を図りました。戦前から日本の代表的産業であった紡績業を支えてきた繊維商社も例外ではなく、関西の大手繊維商社の日綿実業(現 双日)は、「脱繊維」を掲げて総合商社化を急いでいました。

日綿実業は、新たな商材や技術を求めて世界に目を向け、当時、米国で大きな成長を見せていた「リース」の将来性に着目。生産性向上や競争力強化のため設備投資の必要に迫られていた日本において、リースの成長性は大きく期待できると考え、メインバンクの三和銀行(現 三菱UFJ銀行)と検討を重ねました。

その後、2つの商社※1と4つの銀行※2の参加を得て、3商社、5銀行により、1964年4月にオリエント・リース株式会社(以下オリックス)を設立。当時、国内ではほとんど知られておらず、まったく新しい金融手法であったリースを、オリックスはパイオニアとして日本に導入したのです。

※1 日商、岩井産業(両社は合併して現 双日)
※2 東洋信託銀行(現 三菱UFJ信託銀行)、日本勧業銀行(現 みずほ銀行)、神戸銀行(現 三井住友銀行)、日本興業銀行(現 みずほ銀行)

日本も海外も同じ。「ビジネスに国境なし」

設立時の社員は13名。メンバーは、三和銀行(当時)の取締役ニューヨーク支店長から転じ、後にオリックス(当時 オリエント・リース)の社長となった故乾 恒雄や、日綿実業 海外統括部に所属していた宮内 義彦(現 シニア・チェアマン)をはじめ、各株主会社から集いました。

海外経験があった乾、宮内をはじめ、銀行・商社出身者が経営陣として集まっていたことから、海外への抵抗がなく、設立当初より海外進出の機会をうかがっていました。「リースが知られていないのは、日本もアジア諸国も同じ。ならば、広いマーケットに進出するべき」と考えていたのです。

「国内ではリースの専門店となれるよう、システムやノウハウの開発に努める一方、海外市場の開拓によって、スケールメリットを追求する。そして将来は世界各地のグループ会社を連結決算で結び、一大リース会社に成長しよう」(乾)

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「国際化」を、ものものしく捉えずに「日本という垣根を外す」スタンスで取り組む。この「ビジネスに国境なし」という乾の考えのもと、設立から間もない1970年には、海外進出に向けての市場調査が開始されました。

たった一人でスタートした初の海外現地法人

まず、海外市場調査の任に当たったメンバーは、東南アジアを中心に各国の経済事情や法制度などを調査。リース展開の可能性を探り、最初のターゲットを台湾に定めました。しかし、当時の台湾は規制が厳しく、営業許可を得ることができませんでした。

そこで、さらに香港、フィリピン、マレーシア、シンガポール、タイを回り、マーケットを探索。その結果、候補地を香港に絞りました。当時の香港はイギリス領であり、中国へ返還されるまで20年間の政治的安定が見込まれていたことが最終的な決め手となったのです。

現地での会社設立は、地元の有力企業と組み、合弁事業として立ち上げる考えで準備が進められましたが、最終的には、「ベストな相手と組めないならば、単独進出するべきだ」と、オリックス100%出資のもと、初の海外現地法人 Orient Leasing (Hong Kong)Ltd.(現ORIX Asia Limited) を1971年9月に設立。

設立の数カ月前から、事務所の設営や現地従業員の採用準備が始まりましたが、当時、海外に事務所を設置することは容易ではありませんでした。当時は1カ月あたりの外貨の持ち出しが国に制限されており、オフィス賃料、電話代、住居費、生活費をそこからすべて賄わなければならなかったのです。当時33歳だった社員が一人でスタートとすることになりました。

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左:Orient Leasing(Hong Kong)Ltd.の受付、右:Orient Leasing(Hong Kong)Ltd.のオフィス

一年に一カ国のペースで設立

以降、オリックスの海外進出は、1972年シンガポール、1973年マレーシア、ブラジル(2000年に閉鎖)、1975年韓国(2002年に閉鎖)、インドネシア、1977年フィリピン、1978年タイなど、一年に一カ国近いペースで進められました。

香港進出の翌年にシンガポールに設立されたOrient Leasing Singapore Limited(現 ORIX Leasing Singapore Limited. )は、現地のシンガポール開発銀行(DBS)とユナイテッドオーバーシーズ銀行(UOB)と組み、合弁による海外進出第一号となりました。条件交渉など難航しましたが、同社の合弁契約がその後の合弁設立のモデルケースとなるなど、功績の大きいものでした。

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※1 その国最初に設立・出資した現地法人のみ掲載しています。詳細の沿革はこちらをご覧ください。
※2 2021年9月現在、閉鎖、清算等している会社
※3 Sama Finance SAEに社名変更
※4 Yanal Finance Companyに社名変更

現地に根差し、その土地、環境、風土に合わせて経営する

「海外へ出てゆくときに一番肝心なことは、ベストと考えられる人と組むこと。第二に、向こうの人間になるのだという気構えが必要です」(乾)

オリックスの海外進出は、各国に合わせたローカライゼーションが基本方針とされました。
日本から駐在員が行っても現地で有力な会社を創り上げることは至難の業。現地に根差した経営陣が中長期的な視点に立って経営にあたることがふさわしいという考えがあったからです。

そこで、才能ある人材を国籍問わず現地で採用し、マネジメント層を育成。現地に根差した経営陣が、その土地の環境や風土に合わせたやり方でビジネスを発展させました。これは現在においても変わっていません。

また、進出する国を検討する際に重視されたのは、「その国で初のリース会社として進出する」ことでした。リースに対する認知のない国に、他社に先駆けて進出することは大きな困難も伴いますが、先行者としてビジネスの可能性は大きく広がります。当時の銀行や後進の同業他社などは、海外市場において「日系企業」を中心にビジネスを展開することがほとんどでした。リスクはあっても、収益を確保するとともにアジアの成長性を見込み、各国の経済発展に貢献するという思いもあったのです。

自分の足で立つために、チャレンジし続ける

また、乾は「会社というものは自分の足で立つべきだ」と考え、親会社から独立するため早くから上場を目指しました※3。独立するということは、後ろ盾がなくなるため、各場面で相当な苦労がありましたが、この独立性が海外進出や事業の多角化に大きく寄与したといえます。

当時、海外進出に携わったOBたちは、「やりたい」と声をあげた人が調査・提案を行い、成功に向けて実行に移すという、自律的な企業文化があったと話します。

「もちろん失敗もありましたが、まず失敗を恐れずチャレンジし、うまくいかなければ早期に判断して撤退することを基本としていました」)

「一度NOと言われても、自分が確信していたことは諦めませんでした。NOと言われたら、いったんはサッと引き下がりましたが、ブラッシュアップして再度挑戦しました。それで提案が通り、成功できたこともあります。みんな、粘る気質を持っていたと思います」

変化や失敗を恐れないマインド。自ら方針を作り、それを実現するバイタリティ。粘り強さ。これらオリックスに根づく企業文化が、オリックスの成長を支えてきたといえます。そして、これらは、いつの時代においても共通して必要なものではないでしょうか。

※3 1970年4月に大証二部、1971年4月に東証二部、1972年3月に名証二部、1973年2月に東証、名証、大証一部に上場


事業を通じた社会課題への貢献

サステナビリティ

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