
[監修]日本棋院東京本院所属 一力 遼
本記事は2026年5月時点の情報を基に作成しています。
経営の現場では、重要な意思決定や大きな商談など、結果を左右する局面が繰り返し訪れます。そうした場面で、平時に培った力をいかに発揮し、ぶれずに判断できるか。それは高い成果を求められる経営層や管理職にとっても、避けて通れないテーマです。
その問いに多くの示唆を与えてくれるのが、極限の集中力と判断力が問われる囲碁の世界です。2024年には「囲碁のオリンピック」とも称される国際棋戦「応昌期杯世界プロ囲碁選手権戦」で優勝し、日本勢として19年ぶりの世界一に輝いた一力 遼名人も、かつては重圧に苦しみ、本来の力を十分に発揮できない時期がありました。
転機となったのは、メンタルトレーニングに取り組み、自身の状態管理を見直したことでした。実力を高めるだけでなく、実戦でその力をいかに安定して発揮するか。その視点から自分の心身と向き合うことで、勝負どころでのあり方が大きく変わったといいます。
そこで今回は、重要局面におけるプレッシャーとの向き合い方や、正解のない時代に判断を引き受けるための姿勢について、一力 遼名人に話を伺いました。
実力が拮抗する世界では、わずかな「状態」の差が勝敗を分けることもある

──はじめに、プロ囲碁棋士として日々どのような環境で戦っていらっしゃるのか、お聞かせください。
2010年夏季に入段(プロ入り)して以来、公式戦の通算対局数は900局近くに上ります。トップ棋士になると、国内タイトル戦で全国を移動するだけでなく、国際大会に向けた海外遠征も頻繁にあります。年間では約60局、多い棋士であれば70〜80局を戦うため、一年を通して全国各地、そして海外を飛び回る生活です。
──体力面だけでなく、精神面でもかなり厳しい環境ですね。
そうですね。対局に向けて、いかに心身の状態を整えるかは、私たち棋士にとって最も重要なテーマです。とりわけトッププロ同士の戦いともなれば、囲碁の実力は伯仲しています。それゆえに、当日のわずかな状態の差が、勝敗を分けることも珍しくありません。
かつての私は、「負けるのはひとえに研さん不足によるものだ」と考え、研究会やネット対局の量を増やすことに注力していました。しかし、研究量や対局量を増やすほど疲労が蓄積し、本番で良い状態を維持できなくなっていきました。結果として、練習量を増やしても、そのまま成績向上には結びつかなかったのです。そうした行き詰まりの中で、従来とは異なる観点から自分を見直す必要があると感じていたとき、師匠から勧められたのがメンタルトレーニングでした。
そこから得た最大の気づきは、「能力を伸ばす努力」だけでは限界があるということでした。もちろん、盤上の実力を高めることは大前提です。ただ、実際の対局でその力を安定して発揮できなければ、結果にはつながりません。勝つためには、技術を磨くことだけでなく、本番で高いパフォーマンスを発揮できる状態を整えることが不可欠。その重要性を強く実感するようになりました。
「而今」の精神で思考のノイズを振り払う

──具体的に、メンタルトレーニングではどのようなことに取り組まれたのでしょうか。
基本になるのは、トレーナーとの対話です。直近の対局を振り返りながら、その場面で自分が何を感じ、何を考えていたのかを一つひとつ言語化していきます。囲碁の技術的な話というより、対局中の心理状態や思考の流れを整理していく作業です。そうした対話を重ねる中で、自分でも気づいていなかった思考の癖が次第に見えてきました。
──どのような思考の癖に気づかれましたか。
例えば以前は、タイトル戦で初戦を落とすと、そのシリーズ全体が厳しくなるというジンクスにとらわれていました。五番勝負(先に3勝した方がタイトルを獲得する方式)であれば、一局は5分の1にすぎないはずなのに、自分の中ではそれ以上の重みを与えてしまっていたのです。初戦で敗れると、「もう苦しいのではないか」と必要以上に引きずってしまう。そうした受け止め方が、その後のパフォーマンスにも影響していたのだと思います。
けれど本来は、初戦を落としても次で取り返せばいい、それだけのことなのです。ごく当たり前ですが、その当たり前を自分の感覚として取り戻していくことが、大きな転機になりました。
──そうした気づきを経て、対局中に意識の置き方として大切にされていることはありますか。
「而今(じこん)」という言葉を大切にしています。禅語で「今この瞬間に集中する」という意味です。対局中は、「あの手は失敗だったかもしれない」とか、「別の選択肢の方がよかったのではないか」と感じる場面が何度もあります。しかし、過去の一手に意識を奪われると、その分、今の局面に向けるべき時間や集中力が損なわれてしまいます。
振り返りは、対局後に行えばいい。対局中に必要なのは、過ぎた一手を悔やむことではなく、目の前の一手に向き合うことです。大きな勝負になればなるほど、「勝ちたい」「ここで決めたい」という思いは強くなります。しかし、最終的に重要なのは、その局面でどれだけ今この瞬間に集中できるかだと思っています。
──調子が上がらない時期は、どのように捉えていますか。
どれほど実力があったとしても、常に絶好調でいられる人はいません。だからこそ、まずは完璧ではない自分を受け入れ、調子に波があることを自然なこととして受け止めることが重要なのだと思います。
その上で、結果が出ない時期を、ただ悪いものとして捉えるのではなく、次のステージに進むための準備期間と考えるようにしています。レベルが上がれば、それまでのやり方では通用しなくなり、新しい壁にぶつかるのはむしろ自然なこと。目先の結果だけで一喜一憂するのではなく、少し長い時間軸で物事を捉えることで、苦しい状況の見え方も変わってきます。
また日々の習慣として、日記にその日の良かったことを簡潔に書きとめるようにしています。結果が出ない時期ほど、できていないことばかりに目が向きがちですが、小さな前進を言葉にすることで、自分の積み重ねてきたものを確認できる。結果だけで自己評価が揺れすぎないためにも、大切な習慣だと感じています。
不確実な時代にこそ問われる、リーダーの「整える力」

──一力名人は2024年から株式会社河北新報社の取締役として経営にも携わっておられます。囲碁と経営に、通じる部分はあると感じますか。
経営に携わってまだ日が浅いため、多くを語れる立場ではありませんが、囲碁と経営には共通する点があるように思います。
例えば、ビジネスにおいても長期的な目標を持つことは重要です。一方で、長期目標だけを見据えていると、思うように進まない局面で気持ちが折れてしまうこともあります。だからこそ、「今月はこれに取り組む」といった短期的で具体的な目標を設定し、一つひとつ着実に積み重ねていくことが大切なのではないでしょうか。そうした積み重ねの先に、自分が目指す姿や、会社としてあるべき方向性も見えてくるのだと思います。
──AIの活用など、ビジネスを取り巻く環境は急速に変化しています。囲碁界はその波をいち早く経験しましたが、こうした変化に人はどう向き合うべきだとお考えですか。
囲碁界では、「AlphaGo(アルファ碁)」というコンピューター囲碁プログラムの登場が大きな転機になりました。2016年に当時の世界最強棋士に勝利し、それまでの常識、とくに序盤の定石が大きく見直されたのです。こうした変化に対応するには、「これが正しい」という思い込みにとらわれず、柔軟に学び続ける姿勢が欠かせません。
ただし、AIが示す手をそのまま受け入れればよいわけではありません。大切なのは、なぜその手が有効なのかを自分なりに考えることです。また研究では有効に見えても、人間相手の実戦ではうまくいかないこともあります。AIを使って仮説を立て、実戦で試し、振り返りながら修正していく。その試行錯誤が重要なのだと思います。
情報や「最適解」の候補があふれる時代ほど、最後はそれをどう解釈し、自分の判断として引き受けるかが問われます。選択肢が増えるほど、人は迷いやすくもなります。だからこそ、新しいものを受け入れる柔軟さと同時に、先入観や感情の揺れにのみ込まれず、自分自身の状態を整え、冷静に選び取る力が、これまで以上に求められるのだと思います。

一力 遼(いちりき・りょう)
日本棋院東京本院所属
1997年6月10日生まれ。宮城県出身。宋 光復九段門下。2010年夏季入段(2011年度採用)。2012年二段、2013年三段、2014年四段、同年七段、2017年八段、2020年九段。2024年には「応昌期杯世界プロ囲碁選手権戦」において日本勢として19年ぶりの世界戦優勝を飾る。株式会社河北新報社の取締役も兼務。
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