山梨にある「世界最古の温泉旅館」知られざる秘密 〝温泉旅館の親父を貫け”の奥深い意味

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この記事は、東洋経済新報社『東洋経済オンライン/執筆:田宮寛之』(初出日:2022年4月27日)より、アマナのパブリッシャーネットワークを通じてライセンスされたものです。ライセンスに関するお問い合わせは、licensed_content@amana.jpにお願いいたします。

観光業にとって、コロナ禍は大きな痛手となった。コロナ以前にはインバウンドとうたわれた外国人観光客の大量訪日は今もなく、観光業は依然厳しい戦いを強いられている。

それは伝統ある老舗企業も例外ではない。世界最古の温泉旅館としてギネスにも認定されている西山温泉慶雲館も例外ではない。しかし川野社長の顔には自信すら浮かぶ。なぜか。これまで幾多の危機を乗り越えてきた歴史ゆえだろう。新刊『何があっても潰れない会社』から抜粋し、西山温泉慶雲館の歩みを紹介する。

藤原氏に発見され「湯坊様」と親しまれた湯治場

山梨県の山間部、早川町に建つ慶雲館は1300年余りの歴史を誇り、2011(平成23)年にギネス認定された「世界最古の温泉旅館」である。

その発祥は705(慶雲2)年、藤原真人なる人物が源泉を発見したことだ。700年代という時代と「藤原」の名から、何となく想像がついた人も多いかもしれない。平安時代に権勢を誇った藤原氏の始祖であり、645(皇極天皇4)年に始まる大化の改新を率いた藤原鎌足、その長男が藤原真人である。

ことの起こりは次のように言い伝えられている。

学僧だった真人は現在の山梨県の山間部に住居を構え、地元の女性と共に家庭を築いていた。ある日、山に狩猟に出た折、湯川という川の岩間から吹き出る湯を発見し、ためしに湯に体を浸してみると、疲れも痛みもすっかり解消してしまった。

そこで真人は、この秘湯に至る道を切り開き、湯壺を建設した。当初は近隣の人々が体を癒やす程度だったが、やがて周囲の村々にも評判が広まり、多くの人が御礼の品に粟や麦などを持参して訪れるようになったという。

この湯治場の評判は、時の権力者の耳にも入った。

758(天平宝字2)年には病にかかった孝謙天皇が湯治に訪れ、20日あまりで全快した他、武田信玄や徳川家康も、この湯で戦の疲れを癒やしたと言い伝えられている。武田二十四将の一人、穴山梅雪が湯治に訪れた折、慶雲館の守護神・湯王大権現に奉納したという銅鑼は、現在も家宝として慶雲館の当主に受け継がれている。

藤原真人が偶然にも発見した温泉は、こうして各地から人がやってくる湯治場へと発展した。といっても当初は旅館ではなく、自炊のできる宿泊施設だった。訪れた人々は自ら寝食を整えつつ、一定期間を過ごしたのである。

実は、この業態のほうが温泉旅館としてよりも歴史は長い。1970年代から何度かの増築と改築を経て最終的に旅館へと生まれ変わったのは、1997(平成9)年のこと。「この先は湯治場だけではやっていけない」と考えた先代・深澤雄二の経営判断だったという。

医療や医薬品など未発達だった時代に、湯治は病苦を癒やす一番の民間療法だった。慶雲館の代々の当主は、いつしか訪れる人々から「湯坊様」と呼ばれるようになったそうだ。僧侶だったわけではないが、薬効あらたかな湯の守り人に対する感謝と敬意の表れだろう。50代当主くらいまでは、この愛称で通っていたという。

伝統と挑戦の掛け合わせが、唯一無二の価値を作る

温泉宿の最大の財産は、いうまでもなく温泉だ。しかし「温泉だけでは、知る人ぞ知る湯治場のままで終わってしまう」と53代目・川野健治郎社長は話す。そこで慶雲館が重んじているのが、泉質だけに頼らない「温泉力」だ。同社が定義する「温泉力」とは、自然の恵みである温泉に加えて、質の高い料理、格調ある建物、行き届いたもてなしも含めた、総合的な価値を高めるということである。

そのうえでなら、車でも公共交通機関でもアクセスしにくい不便さも1つの価値になるのではないか、と川野社長は考えている。観光業では基本的に「安・近・短」が重んじられる。一方、簡単には辿り着けないという希少性は「秘湯」というイメージとも相まって魅力的である。排気ガスの届きにくい山間部の清涼な空気は、温泉に次ぐ自然の恵みだ。

現に2020年のコロナ禍では、いわゆる「3密(密閉・密集・密接)」を避けたい温泉客が、人里離れた慶雲館を好んで訪れたという。

もちろんこれらは、慶雲館を特別な温泉旅館とする付加的な価値であって、一番の売りが温泉そのものであることには変わりない。

先代の時代に湯治場のある自炊型宿泊施設から温泉旅館に作り変えられた、と先述したが、その際には開湯1300年の記念事業として、敷地内で新たに温泉を掘削した。温泉掘削は数千万~億単位の莫大な費用がかかる大事業だ。しかも温泉が湧く位置を正確に割り出すことはほぼ不可能であり、博打のようなものである。

慶雲館は、文字通り大きな賭けだったこの事業に挑み、みごと成功した。先代が「ここだ」と目星をつけた場所に温泉が出たのだ。それも52℃の湯が1分間に1600リットル(ドラム缶8本分)も自噴するという大当たりだった。自噴圧は17気圧、これはまれに見る高圧力であり、掘り当てたときには文字どおり湯柱が170メートルほども上がったという。

日本に数多ある温泉には、圧力が弱くポンプで地中から汲み上げ、湯量が足りないために加水しているところも多い。なぜ水圧が低くなるかというと、簡単にいえば1つの源泉に複数のパイプが差し込まれているからだ。

水風船をイメージするとわかりやすいかもしれない。水風船に(割れないという仮定で)複数のストローを差すと、1本1本のストローから飛び出す水の勢いは分散される。

一方、自噴圧17気圧というのは、地中から汲み上げるどころか、自ら吹き出す圧力が強すぎて減圧器が必要になったほどのもの。慶雲館は、いわば「何億年もかけて湯を膨大に蓄え、まだ誰もストローを差していない水風船」を掘り当てたというわけだ。

なぜそれが可能だったのか。幸いにして先代の勘が当たったからとしかいえないが、「やると決めたら絶対にやる。それが先代のすごさでした」と川野社長は振り返る。

現在、「源泉かけ流し」といえる温泉旅館は全国の1%にすぎないといわれている中、慶雲館は、大浴場はもちろん各客室の風呂、シャワー、給湯に至るまで、すべて加水・加温なしの源泉だ。これはおそらく日本で唯一だという。湯温52℃では高温すぎるため、藤原真人が発見した伝統的な自然湧出の湯と調合して適温を保っている。

古くは藤原真人が発見し、さらには先代が新たに掘り当てた自然の恵みが、今の慶雲館が持つ唯一無二の価値を作っているのだ。

信念あるところに、リピーターが集う

温泉旅館としての総合力を維持・向上することに努めている慶雲館がもっとも重きを置いているのは、訪れた客に極上の時間を提供することだ。かといって安易に流行に飛びついたり左右されたりはしない。

たとえばコロナ禍以前、観光業ではインバウンド需要をいかに取り込むかで盛り上がっていた。旅行会社を通じて、あるいは自社サイトで外国人観光客にアピールする宿も多かったと見えるが、慶雲館ではいっさいそうした広告宣伝は行わなかったという。

慶雲館は全室和室、数寄屋造りの純和風旅館だ。玄関で靴を脱いでスリッパに履き替え、湯上がりには浴衣を着用し、布団で寝る。特に欧米人には馴染みがない習慣だが、慶雲館は靴のまま上がれるようにもしなければ、ベッドを設けた客室も作らず、「当館は純和風旅館である」ということを頑なに守ってきた。

ひと言でいえば、客に迎合はしないという姿勢だ。それでも、どこかで評判を聞きつけてやってくる欧米人はいるものだ。その点は見越して、インバウンド需要が盛り上がってきたころに、あらかじめ大きめのスリッパと長めの布団を特注したという。

するとアジア人に比べて体が大きい欧米の観光客は驚く。「前に泊まった旅館ではスリッパがきつく、布団から足がはみ出して寝づらかったのに、この宿は違う」と。この驚きが感動の記憶として残り、結果としてリピートにつながる。ただし、こうした準備があることを自らアピールはしない。

積極的には宣伝しない。自らの本質を変えてまで客に合わせることもしない。だが縁あって来館してくれた人には極上の時間を過ごしてもらえるよう、考えうる万全の体制は整えておいて、さも当たり前のように提供する。欧米人観光客への対応は一例であり、徹頭徹尾、このような姿勢が貫かれているという。

自分たちのやり方に従ってもらうばかりでは、旅館としてもっとも重要なホスピタリティが損なわれてしまうと考えてこそ、このさじ加減になるのだろう。

聞けば慶雲館は総じて客筋がいいという。日本人も外国人もマナーと節度を守り、それぞれが心地良い時間を過ごす。信念を貫くという筋の通った宿には、信念を尊重するという筋の通った客がつくという証しにも見える。

「頑固であれ。〝温泉旅館の親父〟を貫け」

ところで慶雲館は、代々、創業一家によって営まれてきた。しかし先代・深澤雄二には後継ぎがなく、2017(平成29)年、先代に見込まれた川野社長が、53代目として経営を受け継ぐことになった。

「社長になろうと思って入社したわけではない」と当人が話すとおり、まるで思ってもみなかった社長就任の打診を最初は断ったという。

しかし、1984(昭和59)年に25歳で入社して以来、不思議と先代とは馬が合い、しょっちゅう叱られながらも多くを学んだことは事実だった。加えて、すでに先代は80代に差し掛かっており、後継者問題の解決は待ったなしだった。迷ったあげく、この由緒正しい温泉旅館のトップに立つという重責を引き受ける覚悟を決めた。

「頑固であれ。流行に飛びつくな。〝温泉旅館の親父〟を貫け」とは先代の教えだという。川野社長が考えるに、その真意は次のようなものだ。

あれこれと手を出すと、考えなくてはいけないことが増える分、思考散漫となって質の高い判断ができなくなる。だから頑固なまでに1つのことに集中せよ。

流行に乗せられて目移りなどせず、旅館業一筋で真面目に続けていれば、経験が蓄積される。そして、たとえ沈む時期はあっても、長年の経験という財産を持って必ず浮上することができる。

温泉や建物、従業員の振る舞いを通じて日本の旅館の良さを伝えていけば、この先100年でも200年でも続いていく。

先代の薫陶を受けた川野社長は、こうした教えを今なお守りつつ、つねに「先代ならばどうするだろうか」と考えて、経営に当たっているという。

危機は起こって当たり前

観光業にとって、近年でもっとも大きな危機はコロナ禍であった。日本政策金融公庫が2020年8月に実施したアンケート調査によると、回答したホテル・旅館業者の売り上げは「50%以上減少」が約90%、「80%以上減少」でも54.6%と過半数を超えた。

一方、慶雲館は、初の緊急事態宣言が発令された2020年4~5月、さらに7月までは赤字が続いたものの、8月以降は「Go Toキャンペーン」の需要もあって黒字回復。2020年は、年間売り上げを前年と比較すると4割減くらいだったという。

たしかに売り上げが落ち込んではいるが、5割以上減というホテル・宿泊業も多いなかでは、傷は浅いほうといえるだろう。Go Toキャンペーンがあったとはいえ、黒字回復の早さにも驚かされる。

それを可能にした具体的方策として挙げられるのは、稼働客室数を思い切って絞り、経費を削減したことだ。通常は35室であるところ、2020年4月1日からは27室とし、大型の8部屋を宿泊客の食事会場としたほか、諸経費の洗い出しを徹底的に行い、出費を抑えるなどした。

このように、厳しい状況下でも、うろたえることなく冷静に先手を打ち、より大きな危機に備えるというのは、長い歴史のなかで培われた胆力なのだろう。

平時はいつ何時、一瞬にして有事に転じるかわからない。だからこそ「危機が起こって当たり前」の心構えでいることが判断の速さにつながるのだ。川野社長は、「それができるようになったのは、先代の姿を30年間以上にわたり間近で見てきたからだと思う」と話す。

たとえば2010(平成22)年7月、大規模な落石事故の影響で県道が1カ月間にわたり通行止めになったことがある。本来ならば、その県道を通らなくては慶雲館には辿り着けない。順当に考えれば営業停止となるところだったが、先代は慶雲館の裏手にある険しい林道を使うという判断を下す。

林道は県道のように整備されていないため、通常、客が乗ってくる路線バスは通れない。そこで慶雲館から送迎車を出し、バスで途中まで辿り着いた客を乗せて宿まで運ぶことにしたのだ。林道の入り口付近には従業員がテントを張って客を待った。

強引といえば強引だ。しかし、宿に泊まることを楽しみにしている客がいる以上、営業継続のために策を講じることが最善であるとの判断だった。途中で車を乗り換えてもらうという不便を強いる分、従業員一丸となって、いつも以上に心を込めてサービスした結果か、むしろリピーターが増えたそうだ。

自然豊かな山間部に位置するだけに、これ以外にもたびたび大雨や大雪の影響を受けたが、そのつど慶雲館は臨機応変の知恵と機動力で乗り切ってきた。

状況を冷静に分析し、すべきことをすれば必ず道は開ける。端的にいえば、観光業にとって深刻な死活問題となったコロナ禍すらも、慶雲館にとっては長い歴史のなかで起こってきた厄災の1つにすぎないのかもしれない。

「ぐずぐずと考えるのは性に合わない。どのみち大変ならば、失敗してもいいという心構えで先手を打つ。打つ手が早ければ失敗しても取り返せる。歴史に学びつつ、社長就任以来最大の危機を乗り切りたい」と話す川野社長の表情には、これまで幾多の困難に対処してきた歴史に基づく自信がうかがわれた。


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